和歌山の居酒屋や旅館で、地元の人が「ほな、いんでくるわ」と言って席を立った。犬を連れてくるのかと思ったら、そのまま帰ってしまった。そんな経験をした旅行者は少なくありません。
「いぬ」を辞書で引いても「犬」しか出てこず、和歌山弁の一覧を見ても「帰る」と一言書いてあるだけで、なぜ帰るのに「くる」が付くのか、どう活用するのかまでは分かりにくいものです。
実はこの「いぬ」、『万葉集』や『伊勢物語』にも出てくる古語「往ぬ」がそのまま残った言葉で、和歌山では今も日常会話で生きています。
この記事では、和歌山弁「いぬ」の意味と例文、「いんでくる」の落とし穴、いね・いんだ・いなんなどの活用一覧、語源、紀北・紀中・紀南での残り方の違い、そして旅行者が聞いたときの自然な返し方までを、和歌山県の公式アーカイブと辞書で確認しながらまとめました。
読み終わる頃には、「いんでくるわ」と言われても慌てず、こちらから「ぼちぼちいのらよ」と言えるようになります。

「いぬ」の意味は「帰る」|和歌山弁の基本
和歌山弁の「いぬ」は、「帰る」「その場を去る」という意味の動詞です。動物の犬とは関係がなく、アクセントも会話の流れも「帰る」として使われます。
Weblio辞書の和歌山弁辞書でも「いぬ」は「帰る」と説明され、用例として「ぼちぼちいのらよ(そろそろ帰ろうよ)」「もーいねや(もう帰れよ)」、否定形として「いなん」が掲載されています。
基本の例文を並べると、次のようになります。
- 「ほな、いぬわ」=じゃあ、帰るね
- 「もういぬんか?」=もう帰るの?
- 「ぼちぼちいのらよ」=そろそろ帰ろうよ
- 「まだいなんといて」=まだ帰らないでいて
標準語の「帰る」との違いは、「家に戻る」よりも「今いる場所を離れる」に重心がある点です。自宅に向かう場合だけでなく、宴会の席を抜けるときや、相手に退出を促すときにも使います。
「いんでくる」「いんでくら」の意味|帰ってまた来るわけではない
和歌山弁でいちばん誤解されやすいのが「いんでくる」です。結論から言うと、「いんでくる」は「帰ります」の意味で、戻ってくる約束は含みません。
和歌山県文化情報アーカイブ「和歌山の方言50音順」(和歌山県文化学術課)には、「そろそろ夜も遅いんで、オイヤンは、いんでくる」という用例が載っており、これは「そろそろ夜も更けてきたので、おじさんは帰ります」という意味です。
Weblio辞書「いんでくる」の和歌山弁の項では、「帰る(一旦帰って再び来る訳ではない。待っていても現れない可能性大。)」と注意書き付きで説明され、用例は「ほな、いんでくら(じゃあ、帰るよ)」です。またWikipedia「紀州弁」でも「去んでくる」は「帰る」の表現として「ほな、去んでくるわ(じゃ、帰るからね)」と紹介されています。
なぜ「帰る」に「くる」が付くのかというと、「行ってくる」「見てくる」と同じ「〜してくる」の形だからです。「行ってくる」と言った人が必ず戻ってくるとは限らないのと同じで、「いんでくる」も「帰るという動作をしに行く」というだけの言い回しです。
興味深いのは、同じWeblio辞書の鳥取弁の項では「いんでくる」が文字どおり「帰ってまた来る」と説明されている点です。「忘れもんしたけえ、ちょっといんでくるわ」のように使うそうで、同じ言葉でも和歌山と鳥取では戻ってくるかどうかが逆になります。

「いぬ」の活用一覧|いね・いんだ・いなん・いのらの使い分け
「いぬ」は「死ぬ」と同じように語尾が変化します。「死ぬ→死んだ・死んで」と同じ要領で「いぬ→いんだ・いんで」と覚えると、聞いたときにすぐ意味が取れます。
| 形 | 和歌山弁 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|---|
| 基本形 | いぬ | 帰る | ほな、いぬわ |
| 過去 | いんだ | 帰った | もう、いんだよ |
| て形 | いんで | 帰って | はよ、いんでや |
| 〜してくる | いんでくる/いんでくら | 帰ります | ほな、いんでくら |
| 否定 | いなん | 帰らない | まだいなんの? |
| 命令 | いね | 帰れ | もーいねや |
| 勧誘 | いのら/いの | 帰ろう | ぼちぼちいのらよ |
否定形「いなん」、命令形「いね」、勧誘「いのらよ」は上で紹介したWeblio和歌山弁辞書に掲載されている形です。「いんだ」「いんで」は「〜んだ」「〜んで」の音便で、「いんでくる」の「いんで」がまさにこの形です。
特に命令形の「いね」は語気が強く、親しい間柄や、子どもを叱るときに使われます。「とっとといね」のような言い方は、Wikipedia「近畿方言」でも「いぬ」の例として挙げられています。旅行者が初対面の相手に使う形ではないので、聞き取れれば十分です。
逆に旅行者が使いやすいのは「ぼちぼちいのらよ」です。同行者に「そろそろ帰ろうか」と切り出す場面にぴったりで、地元の人にも柔らかく響きます。
「いぬ」の語源は古語「往ぬ」|万葉集・伊勢物語にも登場
「いぬ」は和歌山で新しく生まれた言葉ではなく、古典で習う「往ぬ(去ぬ)」がそのまま現代まで生き残ったものです。
Weblio古語辞典「往ぬ」によると、古語の「往ぬ」は自動詞ナ行変格活用で、意味は次の3つです。
- 立ち去る、去る、行ってしまう
- 過ぎ去る
- 死ぬ、亡くなる(婉曲表現)
用例として『伊勢物語』第23段の「河内へいぬる顔にて見れば(河内へ行ってしまうふりをして見ると)」や、『万葉集』の「相見ては千年やいぬる(会ってから千年も過ぎ去ったのか)」が挙げられています。
高校の古文で「ナ行変格活用は『死ぬ』と『往ぬ』の2語だけ」と暗記した人も多いはずです。古文の「往ぬ」の命令形は「いね」、連用形は「いに」で、和歌山弁の「いね(帰れ)」は古文の活用そのままです。教科書で覚えた言葉が、和歌山の道の駅や港で普通に飛び交っていると考えると、方言の見え方が変わります。
「往ぬ」は近畿や四国の広い範囲で方言として残っていますが、和歌山ではとくに「いんでくる」という独自の言い回しと組み合わさって、日常語として定着しています。

紀南で強く残る「いぬ」|紀北・紀中との違い
和歌山弁は一枚岩ではなく、「いぬ」は紀南(田辺・白浜・串本・新宮側)でとくに強く残っていると説明されることが多い言葉です。
Wikipedia「紀州弁」によると、紀州弁は紀北・紀中・紀南に分かれ、さらに平地と奥地でも違いがあります。紀北は和歌山市を中心に大阪の影響を強く受けたエリア、紀中は有田・御坊あたり、紀南は田辺以南で、山と海に隔てられて古い言葉が残りやすい地域です。
関連キーワードで「紀南 いぬ 使い方」と調べる人が多いのは、同じ県内でも紀北の若い世代には「いぬ」がやや古風に聞こえる一方、紀南では世代を問わず日常語として使われているためです。とはいえ、紀北でも年配の方や家庭内では普通に「いんでくる」が出てきますし、地域差より個人差のほうが大きいのが実感です。
| エリア | 主な市町 | 「いぬ」の残り方(目安) |
|---|---|---|
| 紀北 | 和歌山市・岩出市・紀の川市・橋本市 | 年配層中心。若い世代は「帰る」も多い |
| 紀中 | 有田市・湯浅町・御坊市・日高地方 | 日常語として使う人が多い |
| 紀南 | 田辺市・白浜町・串本町・新宮市 | 世代を問わず日常語。「いんでくら」も頻出 |
上の表はあくまで地元の実感に基づく目安で、統計的な調査結果ではありません。旅行で紀南の民宿や漁港に立ち寄ると、「いんでくら」「いのらよ」がごく自然に聞こえてくるので、耳を澄ませてみてください。

和歌山だけではない|近畿・四国でも通じる「いぬ」
「いぬ=帰る」は和歌山だけの言葉ではありません。近畿地方と四国地方を中心に、古語「往ぬ」由来の「いぬ」「いぬる」が広く残っています。
Wikipedia「近畿方言」では、「いぬ」を「帰る。去る。古語『いぬ』の残存」と説明しています。大阪や兵庫でも年配の方を中心に「いね(帰れ)」「いんでまえ(帰ってしまえ)」が通じ、四国では「いぬる」の形で使われる地域があります。
では和歌山の「いぬ」は何が違うのでしょうか。ポイントは2つです。
- 「いんでくる」「いんでくら」というセットの言い回しが日常的に使われる
- 大阪では古風・乱暴な印象になりつつある一方、和歌山(とくに紀南)では丁寧でも乱暴でもない、ごく普通の「帰る」として使われる
大阪の人が和歌山に来て「まだ『いぬ』が現役なんや」と驚くのは、この温度差のためです。関西出身の旅行者なら、和歌山の「いぬ」は懐かしく聞こえるかもしれません。
旅行者が「いぬ」を聞いたときの返し方・使い方
意味が分かったら、次は会話での対応です。聞き取れれば十分で、無理に使う必要はありませんが、場面ごとの自然な返し方を知っておくと旅が楽になります。
| 場面 | 聞こえてくる言葉 | 意味 | 自然な返し |
|---|---|---|---|
| 居酒屋・旅館の宴席 | ほな、いんでくるわ | じゃあ帰ります | お気をつけて/おやすみなさい |
| 道の駅・直売所の閉店前 | ぼちぼちいのらよ | そろそろ帰ろうよ | そうですね、ありがとうございました |
| 民宿の女将さん | 明日は何時にいぬん? | 明日は何時に帰るの? | チェックアウトの時間を伝える |
| 子どもへの声かけ | はよいねや | 早く帰りなさい | 旅行者は使わない。聞き流してOK |
旅行者が使うなら、同行者に向けた「ぼちぼちいのらよ」が最も無難です。地元の人に対して「いぬ」を使うときは、「そろそろいのうかと思って」のように自分の行動に限定すると失礼になりません。相手に「いね」と言うのは避けてください。
なお、和歌山弁には「いぬ」以外にも「あがら(私たち)」「〜やしてよ」など、旅行中に必ず耳にする言葉があります。まとめて知りたい方は和歌山弁一覧をどうぞ。

「いぬ」の基本情報
| 見出し語 | いぬ(漢字表記:往ぬ・去ぬ) |
|---|---|
| 意味 | 帰る、その場を去る |
| 品詞 | 動詞(古語ではナ行変格活用) |
| 主な活用 | いんだ(帰った)/いんで(帰って)/いなん(帰らない)/いね(帰れ)/いのら(帰ろう) |
| 代表的な言い回し | いんでくる・いんでくら(帰ります)、ぼちぼちいのらよ(そろそろ帰ろう) |
| 使われる地域 | 和歌山県全域(紀南でとくに日常的)、近畿・四国の一部 |
| 語源 | 古語「往ぬ」(『万葉集』『伊勢物語』に用例) |
| 注意点 | 「いんでくる」は戻ってくる意味ではない。命令形「いね」は語気が強い |
| 出典 | 和歌山県文化情報アーカイブ、Weblio和歌山弁辞書、Weblio古語辞典 |
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よくある質問
和歌山弁の「いぬ」と動物の犬はどう聞き分けますか?
文脈で判断します。「ほな、いぬわ」「もういぬん?」のように文末や助詞と組み合わさっていれば「帰る」の意味です。動物の犬なら「犬が」「犬を」のように名詞として使われるので、会話の流れで迷うことはほとんどありません。
「いんでくる」と言われたら、待っていたほうがいいですか?
待つ必要はありません。和歌山弁の「いんでくる」は「帰ります」の意味で、Weblio辞書の和歌山弁の項でも「一旦帰って再び来る訳ではない」と注意書きがあります。「お気をつけて」と見送るのが自然です。
「いね」は失礼な言い方ですか?
「いね」は「帰れ」にあたる命令形で、親しい間柄や子どもへの声かけで使われます。初対面の相手や店の人に旅行者が使うと強く響くので、聞き取れれば十分です。自分たちが帰るときは「ぼちぼちいのらよ」「そろそろいぬわ」を使ってください。
「いぬ」は和歌山県のどこでも通じますか?
県内全域で通じます。紀南(田辺・白浜・串本・新宮)では世代を問わず日常語で、紀北(和歌山市周辺)では年配層を中心に使われる傾向があります。ただし個人差が大きく、若い世代でも家庭内では普通に使う人が多いです。
「いぬ」の語源は何ですか?
古語の「往ぬ(去ぬ)」です。ナ行変格活用の動詞で、『万葉集』や『伊勢物語』に「立ち去る」「過ぎ去る」の意味で登場します。近畿・四国の方言として残り、和歌山では「いんでくる」という独自の言い回しとともに定着しています。
まとめ|和歌山弁「いぬ」は「帰る」、いんでくるは戻ってこない
- 和歌山弁の「いぬ」は「帰る・去る」の意味で、犬とは無関係
- 「いんでくる」「いんでくら」は「帰ります」。戻ってくる約束は含まない
- 活用は「死ぬ」と同じ要領で、いんだ・いんで・いなん・いね・いのら
- 語源は『万葉集』『伊勢物語』にも出る古語「往ぬ」(ナ行変格活用)
- 県内全域で通じ、紀南ではとくに日常的。旅行者は「ぼちぼちいのらよ」が使いやすい
「いぬ」が聞き取れるようになると、和歌山の人との距離がぐっと縮まります。次は和歌山あるあるで、方言以外の地元ネタも押さえてから出かけてみてください。




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