「三重県の熊野市って、なんで和歌山じゃないの?」。和歌山県民なら一度は友人に聞かれたことがあるはずです。
新宮から熊野川を渡れば、そこはもう三重県。言葉も食べ物もほとんど同じなのに、県だけが違います。
調べてみると、和歌山と三重が分かれたのは明治4年(1871年)11月22日、たった1日の布達がきっかけでした。しかもその線引きの「見落とし」が、日本で唯一の飛び地の村まで生んでいます。
この記事では、紀伊国がどんな国だったのか、廃藩置県で何が起きたのか、熊野がなぜ三重県になったのかを年表で整理します。後半では北山村の飛び地と瀞峡の三県境、今も残る「紀州」のつながりまで、地元民の目線で案内します。
読み終えるころには、県境をまたぐ週末ドライブに出たくなるはずです。
和歌山と三重が分かれた理由を先に結論から|熊野川を境に線を引いた明治4年
結論から言うと、紀伊国は明治4年(1871年)11月22日に「熊野川・北山川より西は和歌山県、東は度会県(のちの三重県)」と分けられ、それが現在の県境になりました。
国立国会図書館のレファレンス記録によると、この日の布達で紀伊国牟婁郡の東半分が度会県へ編入されています。
分けた理由として『和歌山県史』が挙げているのは、主に次の2点です。
- 県庁からの距離:和歌山から新宮まで約200km、津から新宮まで約150km。熊野の東側は和歌山より津のほうが近かった
- 自然の境界:山と川が複雑な熊野では、熊野川・北山川という大きな川を境にするのが分かりやすかった
つまり「熊野を三重にあげた」のではなく、大きすぎる旧紀州藩の領地を、行政上の都合で川で切ったというのが実態です。
この判断が正しかったかどうかは、いまでも熊野の人たちの話題になります。

紀伊国とは?和歌山と三重南部がひとつの国だった時代
紀伊国(きいのくに)は、律令時代から続く旧国名で、範囲はおおむね現在の和歌山県全域と三重県の南部(尾鷲市・熊野市・紀北町・御浜町・紀宝町など)にあたります。
三重県の南部がいまも「東紀州」「紀北」「紀宝」と呼ばれるのは、この紀伊国の名残です。
紀伊国の中でも南半分を占めていたのが牟婁郡(むろぐん)です。田辺から新宮、尾鷲までを含む非常に広い郡で、熊野三山も熊野古道もこの郡の中にありました。
いまの地図で言えば、白浜・串本・那智勝浦・新宮・熊野市・尾鷲が全部「同じ郡」だったと考えると、どれだけ広かったか想像できます。
江戸時代には、徳川御三家の紀州徳川家が紀伊国に加えて伊勢国の南部まで治めていました。和歌山城を本城に、田辺と新宮にはそれぞれ付家老の城がありました。
新宮城下の木材商と、北山川上流の筏師(いかだし)が熊野杉を運ぶ経済圏をつくっていたことも、後の県境を左右する伏線になります。

廃藩置県で紀伊国に何が起きたか|和歌山県・田辺県・新宮県・度会県の年表
和歌山県と三重県の成立は、わずか数年の間に段階を踏んで進みました。
和歌山県の公式広報「和歌山県誕生150年」と三重県の県史資料をもとに、流れを年表にまとめます。
| 年月日 | 出来事 | 和歌山側 | 三重側 |
|---|---|---|---|
| 1868年(明治元年) | 度会府が設置される | 紀州藩のまま | 伊勢神宮周辺の旧幕府領を管轄 |
| 1869年(明治2年) | 紀州藩が3藩に分割/度会府が度会県に改称 | 和歌山藩・田辺藩・新宮藩 | 度会県 |
| 1871年(明治4年)7月 | 廃藩置県 | 和歌山県・田辺県・新宮県 | 度会県ほか |
| 1871年11月22日 | 府県統合の布達 | 和歌山・田辺・新宮の3県と五條県の旧高野山領が統合し現在の和歌山県が誕生 | 牟婁郡の東半分(熊野川・北山川より東)が度会県に編入 |
| 1876年(明治9年)4月18日 | 第2次府県統合 | 変わらず | 旧三重県と度会県が合併し現在の三重県が誕生 |
| 1879年(明治12年) | 郡の再編 | 牟婁郡が東牟婁郡・西牟婁郡に | 牟婁郡が南牟婁郡・北牟婁郡に |
ポイントは、「三重県に取られた」のではなく、まず度会県という別の県に入り、5年後にその度会県ごと三重県に吸収されたという順番です。
和歌山県はこの11月22日を「ふるさと誕生日」と定めています。詳しくは和歌山県「和歌山県誕生150年」をご覧ください。
度会県の管轄は「一志郡以南の伊勢国と志摩国、紀伊国牟婁郡の一部」でした。経緯は三重県「廃藩置県以前の度会県」に詳しく載っています。
熊野がなぜ三重県なのか|距離・川・牟婁郡の東西南北分割
「熊野 なぜ 三重」と検索する人が本当に知りたいのは、熊野三山のある新宮は和歌山なのに、同じ熊野の熊野市や尾鷲はなぜ三重なのか、という点でしょう。
答えは3つの要素に分けると整理できます。
理由1:県庁所在地からの距離が遠すぎた
当時の交通は船か徒歩です。和歌山市から新宮まで約200kmという距離は、県政を行うには遠すぎました。
熊野川の東側はさらに遠く、伊勢側の県庁から治めたほうが現実的と判断されたのです。
理由2:熊野川・北山川を「分かりやすい境」にした
熊野の山中は国境(くにざかい)が入り組んでいました。そこで古代からの国の範囲ではなく、川を境にするという割り切りをしています。
結果、新宮は川の西側で和歌山県、川の東側の紀宝町・御浜町・熊野市は度会県(三重県)になりました。
理由3:牟婁郡そのものが4つに割れた
県が分かれたことで、ひとつだった牟婁郡は1879年(明治12年)に東牟婁郡・西牟婁郡(和歌山県)、南牟婁郡・北牟婁郡(三重県)の4つに分割されました。
いまも和歌山の串本町・那智勝浦町・太地町・北山村は「東牟婁郡」、白浜町・すさみ町・上富田町は「西牟婁郡」です。三重の御浜町・紀宝町は「南牟婁郡」、紀北町は「北牟婁郡」。県は違っても、郡名に同じ「牟婁」が残っているのが、かつてひとつだった証拠です。
なお、和歌山県への編入を求める運動が熊野市側で起きた記録は、国立国会図書館が調べた市町史には見当たらないとされています。詳細は国立国会図書館レファレンス協同データベースにまとまっています。

分割の置き土産|日本唯一の飛び地・北山村と瀞峡の三県境
川で線を引いた結果、和歌山県北山村は三重県と奈良県にすっぽり囲まれ、和歌山県のどの市町村とも接しない「日本で唯一の飛び地の村」になりました。
和歌山・三重の県境を語るうえで、ここを外すわけにはいきません。
北山村はなぜ和歌山県を選んだのか
北山村の公式観光サイトによると、村は昔から良質な杉に恵まれ、人口の大半を筏師が占めていました。切り出した木材は筏に組んで北山川を下り、木材集積地の新宮まで運ばれていたのです。
明治4年の廃藩置県で新宮が和歌山県に入ると聞いた村民は、「新宮が和歌山県に入ったのなら、ぜひ私たちも」と願い出たと伝わります。生活と商売の相手が新宮だったから、県も新宮と同じにした。とても筋の通った理由です。
一方で『和歌山県史』は、川を境にすればこの地域が飛び地になることを、当時の役所が見落としていた可能性を指摘しています。村民の熱意と行政の見落とし、両方が重なってできた飛び地と言えます。
面積は約48平方kmで9割以上が山林、人口は約450人の小さな村です。詳しくは北山村観光サイト「北山村について」をご確認ください。
瀞峡は和歌山・奈良・三重の三県境
北山川沿いの渓谷「瀞峡(どろきょう)」は、上流から奥瀞・上瀞・下瀞と呼ばれ、和歌山県・奈良県・三重県の3県が川の上で接する三県境として知られています。
切り立った岩壁とエメラルド色の川面は、県境マニアでなくても一見の価値があります。遊覧船やカヌーの運航状況は季節で変わるため、公式サイトで最新をご確認ください。
北山村には「日本唯一」が3つあるとされます。飛び地の村、北山村だけに自生していた柑橘「じゃばら」、そして林業遺産に登録された観光筏下りです。和歌山県公式観光サイトによると、筏下りは毎年5月から9月の運航で、全長約6km・約70分のコースです。詳細は和歌山県公式観光サイト「北山村特集」をどうぞ。


今も残る「紀州」のつながり|熊野三山・伊勢路・方言・あるある
県が分かれて150年以上たっても、和歌山と三重南部は文化圏としてひとつです。旅行者が県境をまたいで楽しめる「つながり」を4つ紹介します。
熊野古道は和歌山と三重の両方にある
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の熊野古道は、和歌山側の中辺路・大辺路・小辺路だけではありません。伊勢神宮から熊野三山へ向かう「伊勢路」は三重県側を通り、新宮の熊野速玉大社で和歌山側とつながります。
三重県熊野市の花の窟(はなのいわや)はイザナミノミコトの葬地とされ、熊野三山の親神として崇拝されてきました。三重県の文化財ページ「熊野古道伊勢路のはなし・花の窟」に由来がまとまっています。
熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)はすべて和歌山県内です。新宮市観光協会「熊野三山」で位置関係を確認してから回ると、「三重の熊野」と「和歌山の熊野」が一本の道でつながっていることが実感できます。
言葉は川を渡っても変わらない
新宮と紀宝町・御浜町では、言葉がほぼ同じです。和歌山弁の特徴であるザ行とダ行の混同や「〜やしてよ」のような言い回しは、三重県南部でも普通に聞こえます。
和歌山の方言をまとめた記事「和歌山弁一覧」を読んでから熊野市に行くと、「ここも紀州やな」と感じるはずです。
めはり寿司・さんま寿司は県境をまたぐ名物
高菜で包んだめはり寿司や、さんま寿司は新宮にも熊野市にもあります。食文化の境界線は県境ではなく「熊野かどうか」で引かれています。
どちらの側で食べても、どこか懐かしい味がするのはそのためです。
県境をたどる週末ドライブの基本情報
和歌山市から新宮までは遠いので、県民でも日帰りはかなり強行軍です。新宮か那智勝浦に1泊して、翌日に北山村・瀞峡・花の窟を回る行程がおすすめです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 県境の川 | 熊野川(新宮市と三重県紀宝町の境)・北山川(北山村周辺) |
| 飛び地の村 | 和歌山県東牟婁郡北山村。北山村観光センター:東牟婁郡北山村下尾井335 |
| 観光筏下り | 毎年5月〜9月運航・全長約6km・約70分(料金・予約は公式サイトで要確認) |
| 温泉 | 道の駅おくとろ併設「おくとろ温泉」(営業時間・料金は公式サイトで要確認) |
| 三県境 | 瀞峡(和歌山・奈良・三重) |
| 三重側の見どころ | 花の窟神社(熊野市)・熊野古道伊勢路 |
| 公式URL | 北山村観光サイト/和歌山県公式観光サイト/三重県文化財ページ(本文中のリンク参照) |

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よくある質問
和歌山と三重はなぜ分かれたのですか?
明治4年(1871年)11月22日の府県統合で、旧紀州藩の領地が「熊野川・北山川より西は和歌山県、東は度会県」と分けられたためです。県庁からの距離と、川を境にする分かりやすさが理由とされ、度会県は1876年に三重県と合併して現在の三重県になりました。
熊野はなぜ三重県なのですか?熊野三山は和歌山ですよね?
熊野三山(本宮・速玉・那智)はすべて和歌山県です。熊野市や尾鷲市など熊野川より東の地域だけが三重県になりました。「熊野」は旧牟婁郡全体を指す広い地域名なので、和歌山と三重の両方に熊野があります。
和歌山・三重・奈良の三県境はどこにありますか?
北山川沿いの瀞峡が代表的な三県境です。飛び地の北山村の周辺には、三県境が複数あるとされています。川の上に境界があるため、遊覧船やカヌーで県境をまたぐ体験ができます。運航状況は公式サイトで最新をご確認ください。
北山村はなぜ飛び地なのですか?
北山村は筏で木材を新宮に運ぶ林業の村で、新宮が和歌山県に入ると聞いた村民が「自分たちも和歌山へ」と願い出たと伝わります。一方で『和歌山県史』は、川を県境にした際に飛び地が生じることを行政が見落としていた可能性も指摘しています。
三重県南部が「紀北」「東紀州」と呼ばれるのはなぜですか?
三重県南部はもともと紀伊国の一部だったため、「紀伊国の北部」「紀州の東側」という意味で紀北・東紀州と呼ばれます。郡名にも南牟婁郡・北牟婁郡として「牟婁」が残っています。
まとめ|和歌山と三重が分かれた理由は「川で切った」一日の布達
- 紀伊国は現在の和歌山県全域と三重県南部をあわせた国で、南半分は巨大な牟婁郡だった
- 明治4年11月22日、熊野川・北山川を境に西が和歌山県、東が度会県(1876年に三重県へ)となった
- 理由は県庁からの距離と、川を境にする分かりやすさ。熊野三山は全部和歌山側に残った
- 線引きの結果、日本唯一の飛び地・北山村と、瀞峡の三県境が生まれた
- 方言・めはり寿司・熊野古道は県境をまたいで共通。文化圏としての紀州はいまも一つ
県境の話を知ってから熊野を歩くと、「和歌山と三重のどっち」ではなく「どちらも紀州」という感覚になります。次は「和歌山弁クイズ30問」で、三重側の友人にも通じる言葉を試してみてください。




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